特集 中東を勉強しませんか?

<中東特集>

オープン時の特集として、本棚には中東理解に役立つ入門書を並べてみました。

中東は、人間社会の歴史を最も古い時代まで遡ることができる地域です。取り上げられるテーマも多様です。

考古学による古代文明へのアプローチ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と続く一神教の系譜、ユダヤ人研究、アラビア研究、欧州による支配史、パレスチナ問題など。

必読と思った入門書だけでも20冊を越えてしまいました。

日本人研究者の著書も含め、中東を取り上げた書物で読んで失望した本は稀でした。いずれも個性のあるアプローチと深い洞察で楽しみながら勉強させてもらいました。

是非、書棚から手にとってご覧ください。 

最後にパレスチナ問題への私見を物語としてまとめてみました。ご興味があればご一読ください。

 少し性格は異なりますが、最近完成した長編小説「ある地政学者の秘密」でも、関係するテーマを取り扱っています。小説はこのサイトの「kのお話し」コーナーの一番奥に載せています。ぜひご一読ください。

 

「A History of the Modern Middle East」

著者:William L. Cleveland and Martin Bunton

出版:Westview press

内容:

 (Part one)  The Development of Islamic Civilization to the Eighteenth Century

  (Part two)  The Beginnings of the Era of Transformation

  (Part three) The Interwar Era to the end of World War II

  (Part four)  The Independent Middle East from the End World War II

  (Part five)  A Time of Upheaval and Renewal

 

「中東がわかる古代オリエントの物語」

著者:小山茂樹

出版:NHK出版

第一部     旧約聖書とイスラエルの族長物語

第二部     古代オリエント国家の興亡

第三部     歴史のなかのキリスト教を辿る

第四部     預言者ムハマンドとイスラーム国家の登場

 

「The Bible as History」

著者:Werner Keller

出版:Bantam Books

 <考古学が読み解くスリリングな古代文明と旧約聖書の世界>

 

DIGGING UP THE OLD TESTAMENT

T The Coming of the Patriarchs from Abraham to Jacob

1.In theFertile Crecent”

2.Ur of the Chaldees

3.Digging up the Flood

4.A Flood-Story from old Babylonia

5.Abraham living in the Kingdom of Mari

6.The long journey to Canaan

7.Abraham and Lot in the land of Purple

 

 U In the Realm of the Pharaohs from Joseph to Moses

    8.  Josef in Egypt

    9.  Four hundred years’ Silence

   10.  Forced Labour in Pithom and Raamses

. 

V Forty years in Wildness from the Nile to the Jordan

  11.  On the road to Sinai

   12.  At the Mountain of Moses

   13.  Under Desert Skies

   14.  On the Threshold of the Promised Land

 

 W  The Battle for the Promised Land form Joshua to Saul

   15.  Israel Invades

   16  Under Deborah and Gideon

   17.  The Warriors from Caphtor

   18.  Under the Yoke of the Philistines

 

X  When Israel was an Empire – from David to Solomon

   19.  David, A Great King

   20.  Was S0lomon a “Copper-King”?

   21.  The Queen of Sheba as a Business Partner

   22.  Israel’s colourful daily life

 

Y  Two Kings – Two Kinddoms    from Rehoboam to Jehoiachin

   23. The Shadow of a New World Power

   24. The End of the Northern Kingdom

   25.  Judah under the Yoke of Assyria

   26.  The seductive religions of Canaan

   27.  The end of Nineveh as a world power

   28.  The last days of Judah

 

 Z  From the Exile to the Maccabean Kingdom from Ezekiel to John Hyrcanus

   29.  Education through Exile

   30.  Sunset in the ancient orient

   31.  Cyrus, King of Persia

   32.  Return to Jerusalem

   33.  Under Greek Influence

   34.  The battle for religious liberty

 

DIGGING UP THE NEW TESTAMENT

 

 T  Jesus of Nazareth

   35.  Palestine on mare Nostrum

   36.  The star of Bethlehem

   37.  Nazareth in Galilee

   38.  John the Baptist

   39.  The Last Journey, Trail and Crucifixion

   40.  The Turin Shroud

 

 U In the Day of the Apostles

   41.  In the steps of St. Paul

   42.  The Destruction of Jerusalem

   43.  The Dead Sea Scrolls

 

REBUILDING WITH THE HELP OF THE BIBLE

 

「パレスチナの歴史」

著者:奈良本英佑

出版:明石書店

第一章     古代―近世―近代

第二章     19世紀・民族と国家

第三章     第一次世界大戦とパレスチナ委任統治

第四章     第二次大戦とイスラエルの建国

第五章     アラブ・イスラエル紛争とパレスチナ人

第六章     中東戦争とパレスチナ・ナショナリズムの発展

第七章     中東世界の再編成とパレスチナ解放運動

第八章     インティファーダー占領地の闘い

第九章     オスロ合意―希望から幻滅へ

第十章     終りなき紛争

 <パレスチナ問題の背景を詳しく解説>

 

 「ユダヤ人の起源」

著者:シュロモー・サンド

出版:浩気社

第一章     ネイションをつくりあげる ― 主権と平等

                種族的な神話から“想像上の産物としての市民”へ

第二章     「神話=史」― はじめに、神がその民を創った

                 歴史学者間の論争

第三章     追放の発明 − 熱心な布教と改宗

                 その国の民の多くがユダヤ人になった

第四章     沈黙の地 − 失われた(ユダヤの)時を求めて 

                 謎 − 東欧のユダヤ人の起源

第五章     区別 − イスラエルにおけるアイデンティティー政策

                 シオニズムと遺伝

<ディアスポラはなかったと仮説するテルアビブ大学教授の書>

 

「キリスト教成立の謎を解く」

著者:バート・D・アーマン

出版:柏書房

第一章     信仰につきつけられた歴史的挑戦 

    神学生のための聖書概論 

第二章     矛盾に満ちた世界 

    イエスの死と生涯に関する記述の矛盾 

第三章     山積する様々な見解 

    イエスはいつ神の子、主、そしてメシアになったのか? 

第四章     誰が聖書を書いたのか? 

    新約聖書には偽造文書が含まれているのか? 

第五章     嘘つき、狂人あるいは主? 歴史的なイエスを求めて 

    イエスの生涯で起きた復活やその他の奇跡 

第六章     いかにして私たちは聖書を手に入れたのか 

    新約聖書の「オリジナル」テキスト 

第七章     誰がキリスト教を発明したのか? 

    天国と地獄 

第八章     それでも信仰は可能か? 

    それならなぜ聖書を研究するのか? 

 

 

「ふしぎなキリスト教」

著者:橋爪大三郎、大澤真幸

出版:講談社新書

第一章     一神教を理解する

   ユダヤ教とキリスト教はどこが違うか

   全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか

   預言者とは何者か

 

第二章     イエス・キリストとは何か

   神の子というアイディアはどこからきたか

    ユダの裏切り

    キリスト教をつくった男・パウロ

第三章     いかに「西洋」をつくったか

            聖霊とは何か

 

 

中東関連図書(続き)

「パレスチナ問題」

著者:エドワード・W・サイード

出版:みすず書房

第一章     パレスチナ問題

        パレスチナとパレスチナ人

      パレスチナ人の権利

第二章     犠牲者の視点から見たシオニズム

      シオニズムとヨーロッパ植民地主義の姿勢

           シオニストの住民化とパレスチナ人の非住民化

第三章     パレスチナ人の民族自決について

        残留者、流亡者、そして占領下の人々

          PLOの台頭

第四章     キャンプ・デーヴィット以降のパレスチナ問題

        委託された権限―修辞と権力

          パレスチナ人および地域の現実

 

「オスロからイラクへ」

著者:エドワード・W・サイード

出版:みすず書房

第一部     第二次インティファーダの開始

        包囲されるパレスチナ人

          イスラエルについてかんがえる

          キャンプ・デーヴィットの代償

          占領は残虐待行為

第二部     9月11日、テロとの戦争、西岸とガザへの再侵攻

        イスラエルのいきづまり

          パレスチナに芽生えるオータナティブ

          アメリカについての考察

          オスロの対価

          アラブの不統一と党派対立

          イスラエルは何をしたか

          アメリカのユダ人の危機

第三部     イスラエル、イラク、アメリカ

      イラクについての誤情報

       アラブのおかれた状況

       アメリカに何か起こっているか

       アラブのおかれた状況

       ロードマップの考古学

 

「壁に描く」

著者:マフムード・ダルウィーシュ

出版:書肆山田

 

「中東 危機の震源を読む」

著者:池内 恵

出版:新潮社

 2004  「アラビーヤ」がもたらすアラブ・メディアの対立軸

 2005  イランとシーア派の影響力を精査する

       「アラブの発展モデル」エジプトが試される時

       アメリカ憎悪を肥大させたムスリム思想家の原体験

       エジプトとシリア 立憲主義を骨抜きにする「緊急事態法」

       イラク新国家成立を左右するクルド民族主義の出方

 2006  シャロンの退場とパレスチナ和平の行末

       「ハマース政権」の足かせとなる「憲章」の強硬姿勢

       イスラエルとの「特別な関係」を自問し始めたアメリカ

       エジプトの「コプト教徒問題」に危険な展開の兆し

        ヒズブッラーを利した米「中東政策」の逆効果

 2007  フセイン処刑に現れた「イラク流」の政治

        岐路にたたされるレバノンの宗派主義体制

        情報リークが謎を深めたイスラエルのシリア攻撃

        中東の秩序を支えてきたエジプトが悩む後継問題

        イランNIE文書とブッシュ政権の「遺産形成」

 2008  「祖父の地点」に逆戻りしたエジプトの近代改革

        海底ケーブルが切断した「帝国の通信ルート」

        レバノン市街戦で蘇る内戦の危機

        世界金融危機で湾岸ドバイが岐路に立つ

        ソマリア沖海賊問題へのアラブ諸国の複雑な感情

 2009  イスラエルのガザ攻撃 「国際世論は味方せず」

        ドバイとサウジアラビアの「補完関係」

        中東・イスラームに向けられた「オバマの言葉」

 

 

「The Truth about Camp David」

著者:Clayton E. Swisher

出版:Nation Books

Part one:  Barak takes charge

        An Israeli deus Ex Machina

         The Palestinians accept a bad-faith bargain

Part two:  Barak opts for Syria first

        Collapse of the Israeli-Syrian Track

         The truth about Geneva

Part three: The Camp Davis Disaster

        The decision to go for broke

          Camp David 2000

 

「The Israel Lobby and US Foreign Polocy」

著者:John J. Mearsheimer and Stephen M. Walt

出版:Penguin Books

Part T: The United States, Israel, and the Lobby

    1. The Great Benefactor

    2. Israel: Strategic Asset or Liablility

    3. A Dwindling Moral Case

    4. What is the "Israel Lobby"?

Part  U: The Lobby in Action

    1. The Lobby versus the Palestinians

    2. Iraq and Dream of transforming the Middle East

    3. Taking Aim at Syria

    4. The Lobby and the second Lebanon war

 

「カーター、パレスチナを語る」

著者:ジミー・カーター

出版:晶文社

 

「Arafat and the Dream of Palestine」

著者:Bassam Abu Sharif

出版:Palgrave

     1. The rise of Yasser Arafat

     2. Black September

     3. Hijacked

     4. Arafat's Escape

     5. War and Pieces of the Middle East

     6. Book Bomb

     8. Reagan's brokern promise

   14. The Soviet Invitation

   15. The storming of Beirut

   16. A terrorist at Buckingham Palace

   17. Tension with Syria

   35. Under Siege

   36. House Arrest 

   

  

「イスラエル」

著者:臼杵陽

出版:岩波書房

 

「ユダヤ人」

著者:村松剛

出版:中公新書

 

「パレスチナ」

著者:広河隆一

出版:岩波新書

 

「イラク 戦争と占領」

著者:酒井啓子

出版:岩波新書

 

「Palestine Palesinians」

出版:Alternative Tourism Group

  

「移動文化考」

著者:片倉もとこ

出版:日本経済新聞社

第一話 海の遊牧民

         砂漠の民が海の民に

第二話 大海へおどりでた人々

         商人だったムハマンド

第三話 移動の哲学

         旅の原型「巡礼」

第四話 文化の移動ーエジプト人の場合

         流動的なエジプト社会

第五話 共存と共生

         コミュニタス(非構造的共生)の社会

第六話 日本にもある「動の思想」

         漂泊へのあこがれ

第七話 ホモ・モビリタスーあたらし遊牧民の時代へ

          移動によって人類は人間になった

           個人移動の時代へ

           21世紀はハイモビリティの時代

  <第五話と第七話に書かれた内容は、僕の持論と完全に一致でした>

 

 「アラビア・ノート」

著者:片倉もとこ

出版:NHKブックス

 

「アラビアのローレンスの秘密」

著者:P・ナイドリイ、C・シンプスン

出版:早川書房

 

「アラブが見たアラビアのロレンス」

著者:スレイマン・ムーサ

出版:中公文庫

T 第一歩

        ロレンスの生い立ち / 情報将校 

 U アラビアの反乱

        休暇をとったロレンス

V ウェジェフからアカバへ

        事実と空想の間 / アラブをいかにあつかうか

W トルコ軍を排除しつつ

        デアラの伝説

X 正規兵と不正規兵

        新たな証拠

Y 前進と後退

       英軍司令部のロレンス

Z 最後の戦い

        ロレンスはダマスカスを統治したか

[ 戦争と平和

     アラブの友かそれとも / ロレンスについてのアラブ側資料

\ ロレンス伝説 ー その虚像と実像

        なぜロレンスは有名になったか / 「英雄」論争ー彼の伝記作者たち / 外国人の見解とアラブの見解

] 結論

     ロレンスのシオニストへの傾倒 / ロレンスのコンプレクス

 

 

 

二つの建国物語(パレスチナとイスラエルの物語)

                        序

イスラエルが自国の存続について、異常なまでの危機感を示す時、彼らが、自分たちの国はいまだ建国途上にあると考えているのだということがよくわかります。事実、現代イスラエルが建国されてまだ半世紀しか経っていないのです。

「有史以来、パレスチナの地にいくつの国が興り滅びていったか。イスラエルなど100年もしないうちに消えてなくなる」アラブの知識人たちがよく口にする言葉です。

一方、パレスチナのほうはまさに建国途上。確かにユネスコにも加盟したし、国連でもオブザーバー国家として認められたが、いまだイスラエルの占領下にあり、国境管理の権利も国防組織も持っていません。

今から綴ろうとしているのは、いまだ途上にある二つの建国物語です。

 

第一章    シオニズムの誕生

 

<シオニズムという言葉>

1948年のイスラエル建国から1992年までの歴代イスラエル首相、をみてみると、一人を除き、いずれもポーランド生まれかロシア生まれ。例外はイギリス信託統治下のパレスチナで生まれたラビン首相一人である。

東欧におけるユダヤ人の過酷な体験が、自分達の国家を建設しようというイデオロギーを生み出し、東欧生まれの革命家達が英国とのゲリラ戦に勝利してイスラエルを建国し、その複雑怪奇な政治、経済、宗教分野の支配メカニズムを東欧育ちのエリート達が作り上げたのである。

 ユダヤ人国家を建設しようという近代シオニズムが生まれたのは、19世紀末のロシア。シオニズムという言葉よりも、ユダヤ人のナショナリズム運動と言ったほうが一般的で分かりやすいのだが、そもそもユダヤ人と称している人々を、ネイション(国民、民族)と呼べるのかというところから、答えのない神学論争が始まってしまう。国家が存在しないのだから国民とは呼べないという充分明快に思える主張には、2000年以上前のイスラエル王国、ユダヤ王国の伝説を論拠とする反論が加えられる。100歩譲って、ネイションを言葉の原義の一つ、「民族」としてとらえたとしても、19世紀末、東欧を中心に生活していたユダヤ人と呼ばれる人々が血縁に基づく民族であるかについては、DNA分析の技術が進んだ21世紀に入ってますます大きな疑問が投げかけられている。最後に少なくとも宗教共同体に属する人々であるという主張があるが、ユダヤ人と呼ばれる人たちが2000年の時間の中で築いてきた宗教共同体は、ユーラシア、アフリカの両大陸に広く分散した多様な性格をもつ共同体であり、それを敢えて一つの宗教共同体と理解したとしても、宗教共同体に属する人々をネイションとは定義できない。

かくなる状況から、ユダヤ人と称し、ユダヤ教を奉じる人々が、自分たちを他の民族、他の国民からの差別・迫害から守るために、自分たちの国家を持つべきだとしたイデオロギー、そしてその運動には、シオニズムという固有な言葉を使わざるをえない。 

このシオニズムというイデオロギーが生まれた19世紀のロシアではユダヤ人迫害が激しく、特に1880年代前半にはポグロム(Pogrom)として知られる大虐殺が行われている。その迫害を逃れたユダヤ人のグループが1880年代からパレスチナへの農業移住を続々と敢行している。イスラエルが建国される60年以上前のことである。1840年代には六千人程度だったパレスチナのユダヤ人居住者が1880年には2万人以上になっている。移住を推進していたグループの一つに、ラバーズ・オブ・シオン(シオンを愛する者)という団体がある。ここに出てくるシオンという言葉は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という共通の神を持つ三つの宗教の聖地エルサレムにある丘の名前で、イスラエル王国を樹立したダビデ王の宮殿と墓のあったところ、旧市街の南の門シオン門を出たところがその場所である。シオニズムという言葉はこの丘の名前から生まれている。

この時期のもうひとつの移住グループも、シオンの名前を冠している。『リション・レチオン(シオン最初の開拓地)』というグループである。

このグループは、1882年、ロスチャイルド一族のエドモン・ジェイムス(1845−1934)に、現在のテルアビブの一部であるジャファの居住区で井戸を掘るための資金援助を求めている。エドモンは、フランス・ロスチャイルドの祖ジェイムズ・マイヤー大男爵の末息子であり、後にイスラエル初代首相、ベングリオンが、新国家建設の父と呼ぶ人物である。エドモンは、リション・レチオンの人々には資金を提供したが、同じ時期に、援助を求めてきた別のロシア人ラビの計画には初めノーと言っている。ラビの計画は、ロシアのユダヤ人難民二十二万人の移住計画であった。エドモンがノーとしたのは、規模が大きすぎ、必要な準備体制が出来ていないという理由からだった。成功のためには移住者の数をコントロールし、移住地における規律あるコミュニティーの建設が必要であると考えていたのだ。このため、エドモンは、厳しい条件を示した後、ラビたちの実験的な入植への財政支援を開始している。入植者たちに、既存の農産物だけでなく、ブドウ、麦、グレープフルーツ、桑の木など、新しい農産物の開発を実行させるとともに、住宅、学校、無料診療所などの建設を援助したのである。  (続く)

 

<レオ・ピンスカー、 シオニズム思想の父>

ロシアでの大虐殺の最中、1882年に、遠く60年後のイスラエル建国につながる重要な論文が発表されている。レオ・ピンスカーなる人物が現した。「Autoemancipation(主体的解放)」というタイトルの論文である。

その要旨は以下のとおりである。

「ユダヤ人排斥の考え方(anti-Semitism)は深く東欧社会に根付いており、ユダヤ人解放のためにいかなる法律が制定されようとも、ユダヤ人が東欧諸国の国民と平等の権利を得ることは望めない。ヨーロッパ社会が変わることを待つのではなく、自分の運命は自分で開拓しなくてはならない。そのためには自分たちの国家を建設すべきである」

このレオ・ピンスカーの考えは、ロシアのユダヤ人青年たちに大きな影響をあたえ、さまざまなレベル、目的の運動や団体が誕生した。ここで指摘しておかねばならないのは、彼は必ずしもユダヤ人国家をパレスチナに建国すべきだとは言っていないことである。

 

<シオニズム運動の父、ヘルツェル>

ところでレオ・ピンスカーが影響を与えたのはロシアの青年だけではない。遠く南方のオーストリア帝国の都、ウイーンに住むハンガリー生まれの新聞記者、テオドール・ヘルツェルの魂を大きく揺さぶり、そこから生まれたエネルギーが、バラバラに誕生していた東欧のさまざまなシオニスト運動を一つの太い潮流に導いていくのである。

ヘルツェルはハンガリーの首都ブダペストに住む中産階級のユダヤ人家庭に生まれ、その両親はいわゆる融合主義者であった。融合主義とは、当時のユダヤ人社会において一般的な考え方であり、宗教以外は、住んでいる国の文化、習慣を受け入れ、その国の模範的な国民になりきることがユダヤ人としての賢い生き方であると考える。これこそシオニスト達が否定しなければならない考えだった。融合主義を代表する人たちの中に、英国、フランス、オーストリアの各国の財政、政策の決定にまで大きな影響力をもつにいたったユダヤ人一族ロスチャイルドがある。この大富豪ファミリーがイスラエル誕生に大きな役割を果したことがよく指摘されるが、その役割を果たしたのはごく一部の変わり種の人間であり、ロスチャイルド一族の主流の人々の目には迷惑かつ危険な冒険主義と映っていたに違いない。かれら融合主義者は、ユダヤ人も他の欧州人と変わらない価値観をもつ人間であろうと努力してきたのであり、ユダヤ人の特殊性を強調しかねないシオニズム運動に大きな警戒心を持つのは当然であった。

ロスチャイルドの人々は、シオニズムとは全く異なったオーソドックスな手段でユダヤ問題の解決に努力し、その成果も手に入れつつあったのである。1878年のベルリン会議では、英国ロスチャイルドのライオネル達の力で、ユダヤ人の権利に関する議題が取り上げられ、バルカン諸国のユダヤ人に完全な市民権を与えると言う合意を獲得している。

 シオニズム運動を冷ややかな目で見ていたのは融合主義で成功した豊かなエスタブリッシュメントのエリート達だけではない。

ユダヤ教徒の教義を守り敬虔な生活を続けている人々も、シオニズムには懐疑的であった。これらの人々の信ずるところによれば、今、ユダヤ人が故郷の地パレスチナを追われ、外国に離散移住というディアスポラの状態にあるのは神が定めたことであり、パレスチナに戻るか戻らないか、自分たちの国を作るか作らないかは、全て神の意思によるものであり、人間である自分たちが決めることではないと考えたのである。

ディアスポラとは2千年前、ユダヤ王国が崩壊しローマ人に追われ、ユダヤ人たちが集団で難民として国外に移住したことを言い、その難民の子孫が欧州やアフリカ大陸に分散して生活しているユダヤ人であるということになっているが、最近では、この集団難民移住、ディアスポラという出来事そのものに疑問をもつ学者がイスラエル人の中から生まれている。このことについては、後に触れることとして、物語を先に進めねばならない。

 

ヘルツェルはウイーン大学で法律を学んだ後、オーストリアの有名新聞の特派員として欧州中を飛び回り、レオ・ピンスカーの主張は、東欧社会だけでなく西欧社会においてもあてはまることを確信する。

最も直接的な事件は、1894年のドレフェス事件だった。アルフレッド・ドレフェス大尉は、ユダヤ人のフランス軍人だったが、冤罪により終身刑を受け、その判決が巻き起こしたマスコミ論争は、反ユダヤ主義論争としてヨーロッパ中に広まり、ヘルツェルに大きな影響を与えた。

 

ヘルツェルは1896年「ユダヤ人国家(The Jewish State)」を書きあげ、その中で、”ユダヤ人は国民を形成しているが、ユダヤ人文化を自由に表現できる政治的単位としての国家を欠いている”という有名な言葉を現している。この相反する二つの側面に挟まれ、ユダヤ人は生活している国で外国人扱いを受け、生活している国の大多数の人々と異なった文化を持つがゆえに迫害されるのであると分析する。

ヘルツェルの問題意識も、レオ・ピンスカーと同様、ユダヤ人に対するヨーロッパ社会の差別からの解放であり、そのためには政治的主権を持つ国家の設立が必要であると結論する。旧約聖書に基づく宗教的な動機は全くないと言ってよい。従って、ユダヤ国家が設立されるべき地としてパレスチナを特定していないのである。

ヘルツェルの著書「ユダヤ人国家」は東欧のユダヤ人の間で大きな反響を呼び、

その勢いをかったヘルツェルは、1897年、200を超えるさまざまな運動の代表者をあつめスイスのバーゼルにおいて第一回シオニスト会議を開催する。

この会議において初めてパレスチナの名前が登場する。「パレスチナの地に合法的に認められたユダヤ人のフォームを確保する」という近代シオニズムの目的が合意され、発表される。ここで注目しておかねばならない重要な表現が三つある。ひとつは目指すべきユダヤ人のフォームがパレスチナと初めて明記されたこと。二つ目はユダヤ人のために確保されるべきものが「フォーム」であるとしていることである。この言葉は、後に1917年、英国の外務次官が英国シオニスト代表としてのロスチャイルド侯爵との間に手渡した書簡の中で明らかにしたイスラエル建国の保証書とも言うべきバルフォー宣言(協定)でも使われており、この言葉が国家を意味するのか否かが、大きな問題を引き起こすことになる。

三つ目は、フォームという言葉とともに「確保」という表現が使われていることである。これに対し、バルフォー宣言では「建設」という表現に代わっていることに注目せねばならない。

 

第一回シオニスト会議が果たした重要な役割は、世界シオニスト機関の設立を決定したことである。ここで、ヘルツェルはオーガナイザーとしての卓越した手腕を発揮する。まず、世界シオニスト機関に参加した雑多な運動組織を結束させ、その運動に明確な方向を与えるために、自分を中心とする主要プレイヤーによる委員会を設立している。この委員会はシオニスト会議を毎年開催し運営するための事務局作業を行うだけでなく、東欧諸都市に支部を設立し、シオニズムの普及運動を展開させる。この種の国境を越えた運動を組織化する場合、多様な意見をどう調整していくかでエネルギーを使い果たしてしまうのが常であるが、ヘルツェルの戦略は、個々の意見の相違を気にすることなく、参加する代表の数を可能な限り増やしていくところにおかれた。それにより、シオニズムという運動そのものを全世界にアピールできると考えたのである。

同じ戦略の延長に、二つの目標をヘルツェルは考えていた。一つは英国政府の政治的支援を獲得することであり、二つ目は欧米のユダヤ資本から資金的援助を獲得することであった。しかしながら、既に述べたように、ロスチャイルドに代表されるユダヤ人エスタブリッシュメントがシオニズムに警戒的である以上、たび重なる戦役の財政をユダヤ資本家に依存している英国政府がヘルツェル達を支援する筈もなかった。

更に、欧州のユダヤ人達が勝手に自分の帝国内に大量移住する計画を始めていると聞いたオスマントルコ帝国の皇帝が不快な態度を明らかにしたのも当然であった。

そんな中で、ロスチャイルド一族の異端児、エドモンは、ヘルツェルにとって最後の頼みの綱であった。エドモンは、1990年代に入っても、パレスチナでの実験的入植を着実に推進している。岩だらけの土地に果樹園やブドウ園が現れ、さらに新しい土地の獲得、灌漑の整備が進んだ。紆余曲折の後、2時間に及ぶ両者の会談が実現したが、エドモンはヘルツェルが考えるシオニズムの運動に参加することを拒否する。ヘルツェルは、ロスチャイルド家を『ユダヤ民族にとっての不幸』と非難し、エドモン男爵を軽蔑したが、エドモンの考え方は首尾一貫している。『あまりに沢山、あまりに早くというのは、全てを壊してしまう。攻撃的な民族主義を掲げるユダヤ人でいっぱいになったパレスチナは、オスマントルコの敵愾心を煽るだけである。しかも、それに対して入植者は対抗する何の準備もできていないのである』

イデオロギーに走るヘルツェルと、現実的な成果をもとめるエドモンとの大きなそして重要な違いがはっきりと見える。何の準備もできていないという点について言えば、ロシアからのユダヤ人移住者は農業を知らなかった。ロシアではユダヤ人は土地を持つことが許されておらず、農業に関する経験も知識もゼロだったのである。まして、戦力を持ないユダヤ人移民がオスマントルコ軍とどう戦うのかとエドモンは言っているのだ。

 

 

 

パレスチナとイスラエルの物語(続き)

第二章 第一次世界大戦が生んだイスラエル

 

<ユダヤ人の戦略的価値>

1914年8月に第一次大戦が始まり、欧州が英仏露陣営と独墺陣営に二分された時、オスマントルコ帝国が独墺陣営を選択したことが、今日の中東情勢を決定したと言える。

オスマントルコ帝国のこの選択に必然性があったとは思えない。多分中立という選択が最も現実的だったろう。たまたま帝国指導部内にあった親独派の声の大きさが、伝統的な反露感情に火をつけたと言われている。8月にドイツとの秘密軍事協定が結ばれ、10月には、この協定に基づきオスマントルコ帝国の軍艦が黒海のロシア軍港を襲撃し戦の火ぶたが切られた。

これに対し、英国は、アラブ勢力とユダヤ勢力を味方につけるため、戦勝後のオスマントルコ帝国の分割案をそれぞれに提示する。帝国の版図内にあったアラビア半島のメッカのシェリフ・フセインには、帝国の領土に建設される独立アラブ王国の王の地位を約束し、ユダヤ勢力には前述したバルフォー宣言を提示している。現在の中東問題の難しさは、この二つの約束ごとが、戦争を有利に推進するためのその場しのぎの便法であったことからきている。

シェリフ・フセインへの約束は、フランスも承知しており、その裏で英国とフランスは二国でオスマントルコ帝国の版図を分割支配する秘密協定(サイコ・ピコット協定)を結んでいる。しかしながらロスチャイルド侯爵に手渡した書簡であるバウフォー宣言は、英国が独断で行ったものである。この宣言の存在はアラブ勢力だけでなく、同盟するフランス政府も知らなかったのである。

 

第一次大戦が進行するにつれ、シオニズムに対する英国政府の考え方に変化が現れる。その一つは、米国におけるユダヤ人勢力が、政府に対し持つ影響力についての評価だった。

米国がドイツに宣戦布告するのは1917年の4月である。欧州での戦争が始まって3年間、米国は中立を続けていた。この間、ドイツがシオニズム支援の宣言をするのではないかという危惧を、英国政府は抱くようになったのである。もしそんなことが実行されれば米国の参戦が難しくなる。

 

< イスラエル国建国の父、ヴァイツマン>

レオ・ピンスカーの考えを継いだヘルツェルは、1904年、第一次大戦が勃発する10年前に既にこの世を去っていたが、シオニズムを取り巻く環境の変化を踏まえ、ヘルツェルが達成できなかった二つの目標、英国政府の政治的支援と、欧米ユダヤ資本の財政的支援を獲得するために心血を注ぐ人物が育っていた。ロンドンにおけるシオニストのスポークスマンとして活躍を始めたチャイム・ヴァイツマンである。ヴァイツマンは1874年にロシアで生まれ、ドイツのベルリンとスイスのフリボークの大学で学び化学の博士号を取っているが、ベルリンでの学生時代にシオニズムに傾倒し、ロシアにおける世界シオニスト機関の支部設立運動などに参加していた。1904年には英国のマンチェスター大学の化学学科に職を得、その後もシオニズム運動を続け、英国政界に人脈を築いている。このヴァイツマンの人脈から、シオニズム支援を大英帝国の国益と結び付ける考えが生まれてくる。アーサー・ジェイムズ・バルフォアやロイド・ジョージに代表される人々である。英国ロスチャイルドのリーダー達も、次第にシオニズムへの理解を深めていく。

 

<パレスチナの戦略的価値とバルフォー宣言>

これらの人脈に合意されたのが、パレスチナへのユダヤ人移住を支援することにより、その移住区を英国の影響下に置き、スエズ運河に続く地域へのフランスの進出を防ぐという戦略である。

フランスだけでなく、英国以外の勢力が、英国の植民地インドへのルートと、イランの産油地帯に進出することを阻止するということは英国の基本的な中東における軍事戦略だった。後者のイラン産油地域については、英国の軍艦の燃料が第一次大戦の2年前、1912年に、石炭から石油に変更されて以来、その重要度を増している。

この戦略のなかから生まれてくるのがバルフォア宣言であることを考えれば、ヴァイツマンの果たした役割の大きさが分かる。だが、宣言文の内容そのものは、必ずしもユダヤ人国家の設立を支援するものとはなっていない。簡単に言えば、既にパレスチナに住んでいるアラブ人に迷惑をかけない範囲で、ユダヤ人コミュニティーを作ることを支援しようと言っているに過ぎないのである。

 

ここでバルフォー宣言の全文を掲げておく。

『His Majesty’s Government view with favour the establishment in Palestine of a National Home for the Jewish people, and will use their best edeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious right of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country.』

前半で、建設されるのが『国家』ではなく『ホーム』と明記されていることとともに、最後のパラグラフが特に重要である。

『明確にしておかねばならないのは、パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティーの市民権、宗教上の権利に不利益を与えてはならないということである』

 

パレスチナとイスラエルの物語(続き)

<スエズ運河の建設>

ここで第一次世界大戦におけるオスマントルコ帝国をめぐる戦場の動きを簡単にみておきたいのだが、その前に、前章で記した英国のスエズ運河地域での利権とシオニズム支援の関係について、異なった視点からの分析が可能であることを指摘しておきたい。

 

第一次大戦前、エジプトもオスマントルコの一部であった。そのエジプトで、壮大な構想を抱き実現させた人物がいる。フランス人、フェルチナン・ド・レセプスである。地中海と紅海を結ぶ大運河を建設しようというのである。もし実現すればヨーロッパから極東への航海は半分に短縮される。アフリカでの植民地支配をアジアに拡大しようとしているヨーロッパ列強が飛びつかない筈はない。必要な資金の確保も心配ない。レセプスに説かれたエジプトの総督イスマイールがこの話に乗った。だが、レセプスの予想に反し、英国政府が協力を拒否した。理由は分からない。筆者もナセルの国有化以前に、何度かスエズ運河を船で渡ったことがあるが、狭い直線的なコンクリートに挟まれた水路を行くと広大な自然の湖沼に出る。しばらく走ると再び狭い人工の水路に入る。その繰り返しがスエズ運河であり、決して一本の砂漠を貫く人工の水路ではない。素人の印象として技術的にそう難しいものとは思えなかったが、過去における同様の計画が何度も失敗に終わっていることも事実である。技術的な面だけでなく、英国政府は、万が一成功した場合の影響も考えたに違いない。もし成功すれば、欧州列強の既存の利権と世界戦略が根底から覆されるに違いない。そのような歴史的事業を実行するとすれば、大英帝国主導のもとに行わねばならないと考えたのではないだろうか。だが、この計画は英国抜きで進められ、成功してしまう。レセプスの運河会社はフランス政府とエジプト総督からの支援を得ることができたのである。運河をわたる英国の船舶は、非協力への報復とも呼ぶべき差別的な高額通行料を支払わされることとなった。英国政府はおくればせながら、運河会社の株式獲得を試みるが失敗に終わる。ところが、1875年に入り、エジプトは財政破綻の危機に襲われ、イスマイール総督は運河会社の持ち株(44パーセント)を担保にフランスの銀行に融資を申し込んだ。その情報を得たのが英国のN/M・ロスチャイルド父子商会である。情報は英国ディズレーリ首相に伝えられ、エジプト総督との秘密交渉が始まる。ディズレー首相は、旧友だったライオネル・ロスチャイルドに4百万ポンドの借金をもち込み、ライオネルは5パーセントの利子と2.5パーセントの手数料で同意する。この成功により、英国は、スエズ運河支配を獲得し、これによりアジアでの植民地経営を確立したのである。スエズ利権獲得におけるライオネル・ロスチャイルドへの英国政府の恩義もパレスチナの歴史を読むときの伏線として記憶しておく必要がある。

 

<オスマントルコ帝国の崩壊>

さて、第一次世界大戦だが、帝国末期とはいえ、いまだオスマントルコは優に百万を超える兵力を動員する戦力を持っていたことを忘れてはならない。

東アナトリアからコーカサス地方の東部戦線はロシアとの戦場である。1914年冬に、オスマンのパシャ、エンヴァー自身が率いるオスマン軍が仕掛けた攻撃で始まり、当初はオスマン軍の有利に展開したが、無謀なまでの兵力投入が戦力を大きく消耗し、翌年春に始まったロシア軍の反撃に敗退が続く。その後、東部戦線はオスマン側が防御戦に徹したためこう着状態に入った。ここでオスマン側に神風が吹く。1917年、本国での革命の勃発により、ロシア軍は戦場を去り、オスマン帝国は、戦争開始前の領土をほぼ回復するのである。

 

英仏軍との戦いは、首都イスタンブールを守るダーダネルス海峡の攻防と、遠くメソポタミア地方での戦線だった。この両方の戦線でオスマン帝国はいずれも英仏軍を撃退している。有名なガリポリの戦いは、1915年2月に始まり、英仏軍はエーゲ海からイスタンブールに繋がる細長い管のようなダーダネルス海峡をこじ開けようというもので、もし成功しイスタンブールを占領できれば、ドイツ軍とオスマン軍を切り離すことができるだけでなく、黒海経由でのロシアからの兵力輸送、物資運搬が可能になる。英仏20万の兵士が投入されたが、海峡沿岸からの砲撃により、英仏海軍はダーダネルス侵入を阻止され、甚大な兵力を失い1916年1月に撤退する。

 

英仏両国との、もう一つの戦線は、ペルシャ湾にまで達しているオスマン帝国の先端部での戦いである。英国にとってのこの戦線の戦略的重要性は先に記した。インドルートとイラン油田の確保である。

東部戦線でロシアとオスマン帝国の戦いが始まるより早く、1914年末、大英帝国インド軍がペルシャ湾の北端、バスラの港を占領し、バグダッドへの進軍を開始している。ここでも初戦は英国インド軍に有利に展開したものの、またたくまにオスマン軍の反撃に会い、南部の寒村に押し込められての長い籠城の末、1916年、屈辱的な降服を強いられる。

しかしながら、メソポタミア戦線は大英帝国の死命を制する戦線である。英国は1年後、1917年の3月、改めて戦線を構築し、ついにバクダッドを制圧する。

 

実は、もうひとつ重要な戦場があった。この物語に大きな意味を持つ戦場である。それはオスマン帝国支配下のシリアと英国支配下のエジプトの国境地帯、つまりパレスチナでの戦いだった。

この地域はスエズ運河に隣接しており、全ての交戦国がその戦略的重要性を認識していたところである。1915年1月、オスマン帝国のパシャ、エンヴァーがロシアとの東部戦線での戦いを開始する同時に、もうひとりのパシャ、ジャマールは8万の兵士を率い、スエズ運河を目指しシナイ半島に侵入している。素晴らしいアイディアだったが、作戦の細かな詰めがおそまつだった。運河を渡ることなく撃退されてしまう。この危うかった戦いに学んだ英国は、ただちにエジプト軍を増強する。1917年春には増強された兵力で新たな軍を編成し、エドムント・アレンビー将軍指揮の下、オスマン帝国軍が陣取るパレスチナに進軍を開始したのである。

この時活躍したのがアラビアのローレンスである。英国軍と連携し蜂起したアラブ反乱軍がオスマン軍の背後でゲリラ作戦を展開する。この反乱軍への英国の約束が、メッカのシェリフ・フセインにした独立アラブ王国の約束である。

そして1917年12月、英国軍はエルサレムを制圧する。しかしながらシリア戦線はオスマン軍の頑強な抵抗に会い、1918年まで硬直状態が続く。エジプト経由の大規模な兵力・物資の補給により英国軍が体制を整えているうちに、10月1日、アラブ反乱軍がダマスカスを占領してしまう。数日後、フランス海軍の艦隊がベイルートに上陸。オスマン軍はアナトリアに撤退する。同じ月の31日、ついにイスタンブールのオスマン政府は無条件降伏の書類にサインする。これにより中東における戦いは終わり、オスマン帝国は崩壊したのである。

パレスチナとイスラエルの物語(続き)

 

第三章 第一次大戦後、英国信託統治下のパレスチナ、1917〜

 

第一次大戦に勝利した英国が、国際連盟の信託統治領という名で獲得したパレスチナ領土は、オスマントルコ時代、一つの独立した行政単位ではなく、南シリア地方の一部と認識されていた。

このことは、パレスチナという国についてのイスラエル側の認識を理解する上で重要である。そもそも、パレスチナという国は存在せず、パレスチナ人とは南シリア地方に住んでいたアラブ人のことであり、彼らの多くは、同地域に生まれたアラブ人国家、ヨルダンの国民になっているという認識である。

この認識の是非は、この物語の推移とともに判明するであろうが、英国による信託統治が正式に始まる前、この地がまだ英国軍の占領下にあった1919年、アラブ人とユダヤ人の戦いを収めるための、一つの興味深い合意が成立していることに注目したい。

シリアの新しい王に任命されたファイサルとシオニスト代表のヴァイツマンによる合意である。その中で、ヴァイツマンは、パレスチナの経済発展のためにユダヤ・コミュニティーはアラブに協力することを約束し、これに応えファイサルは、パレスチナにおけるアラブ人の権利が守られ、大シリアの独立要求が認められるならば、バルフォー協定の存在を認め、ユダヤ人移民を容認するであろうとしている。

この合意が白紙に戻されたのは、アラブの要求を無視して、フランスがシリアを占領したためである。そして、そのことについては、既にみたように、

英国とフランスはオスマントルコ帝国の版図を分割支配する秘密協定(サイコ・ピコット協定、Sykes-Picot agreement)を結んでいたのである。そのことを知らされていなかったユダヤ代表のヴァイツマンと、アラブ代表のファイサルが一度は共存の合意に達していたことを知る時、中東におけるヨーロッパの罪の深さを改めて思わざるを得ない。

 

1920年のサンレモ会議、2年後の国際連盟結成を経て、パレスチナは正式に英国の信託統治領となる。イスラエル寄りの認識に立つならば、パレスチナはこの時始めて、独立した一つの国となる可能性を与えられたと言える。シリアでも、ヨルダンでも、エジプトでもない領土が、国際連盟の信託統治領となったということは、将来において、その領土はシリアでもヨルダンでもエジプトでもない一つの独立した国になることを約束されたと言えるのであり、その時点では既に領土にはユダヤ人とアラブ人が住んでいたのであるから、本来パレスチナ人の領土であったところに武力でユダヤ人が不当に侵入してきたというアラブ側の主張は成立しない。

 

この時の国連信託統治に関わる条項の中に、バルフォー宣言を認める文言が含まれていたことが、ユダヤ側を喜ばせ、アラブ側の警戒心を高めている。さらに信託統治の最高責任者であるハイ・コミッショナーにヘルバート・サムエル卿が任命されたことは、シオニスト達を一層喜ばせるものであった。サムエル卿はユダヤ人であり、熱心なシオニストだったのある。現に卿は自分の使命がユダヤ人のホーム建設にあると考えていた。この時点で既に、サムエル卿もヴァイツマンも、「ホーム」という言葉を「国家」と認識してたことは、さまざまな機会での二人の発言から確認される。

 

しかしながら重要なことは、英国政府はそう考えていなかったことである。

たとえ、バルフォー宣言が認められたとしても、その宣言自体が明確に、「パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティーの市民権、宗教上の権利に不利益を与えてはならない」としているのである。しかもパレスチナにおけるアラブ人の人口67万人は、全人口の85%を占めている。しかしながら片方でユダヤ人ホームの建設を約し、また片方でアラブ人の権利を認める宣言の矛盾は、その後28年間続いた信託統治期間を通じついに解決されることはなかった。

 

1922年、英国政府はパレスチナの将来計画に関する白書を発表した。これは1920年代を通じ、英国政府の基本方針となったものであり、ここでもユダヤ、アラブ双方を満足させる方策を模索している。アラブ人に向かっては、『the development of a Jewish national home  did not mean the imposition of Jewish nationality upon the inhabitants of Palestine as a whole.』(ユダヤ人のナショナル・ホームの開発とは、パレスチナ住民にユダヤ人国籍を強いるものではない)とする一方、ユダヤ人に向かっては『Palestine should become a center in which the Jewish people as a whole could take pride on the grounds of religion and race』(パレスチナはユダヤの人々が,その宗教と人種に誇りを持って生活できるセンターとならねばならない)としている。

この両義性が信託統治当局に重大な問題を提起する。すなわち、信託統治当局の基本的責務とは、最終的にパレスチナを独立させるため、自治のための機構を作り、独立に必要な能力を育てるところにあるが、そもそも独立したパレスチナとはどんな国を言うのかということについての合意がない。

 

ハイ・コミッショナーのサムエルが考える理想は、アラブ人とユダヤ人が政治的に統合されたコミュニティーだった。彼は、アラブ人の政治参加なくしては、信託統治は機能しないと信じていた。アラブの指導者たちを統治に参加させることができれば、それはバルフォー宣言をアラブ人が受け入れたということを意味するから問題は解決すると考えていた。さらにサムエル・コミッショナーはアラブとユダヤの協力が、アラブ人の生活水準を向上させると強く信じていたのである。

信託統治が始まった時点で、その領土にはユダヤ人とアラブ人が住んでいた事実、一度は成立しかけたファイサルとヴァイツマンの合意内容、現在のイスラエルの経済発展を考えれば、サムエル氏の判断は大きく間違っていたとは思えない。

彼が最初に提案した1922年憲法案は、選挙で選出されたイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の代表、それに加えてハイ・コミッショナーが任命する11人のメンバーからなる立法会議を想定していたが、アラブ側は、バルフォー宣言を否定しない限り、いかなる政府にも加わらないとしてこれを拒否する。

この時のアラブ側の拒否が、パレスチナ問題の始まりのように指摘する意見、それは裏切られ続けた当時のアラブ側の心理を無視したものとする意見、その是非を現在の時点から判断することはできないが、率直に言えば、もし此の時アラブ側が譲歩していたらという気持ちにはなる。

 

現実には、ハイ・コミッショナーは選挙を強行し、アラブ側はボイコットし、憲法案は棚上げとなる。さらにサムエル氏は、自身が任命する10人のアラブ人代表と二人のユダヤ人代表からなる諮問会議を計画するが、任命されたアラブ代表が参加拒否をアラブの指導者たちから強要され、これも失敗に終わる。このたび重なるアラブ側の拒否は、その後のパレスチナに重大な結果をもたらすことになる。以降、ハイコミッショナーとその事務官だけによりパレスチナは統治されることになり、アラブ側の住民は、自分たちを代表するいかなる機関ももたず、憲法も議会も選挙もない状況に置かれることとなったのである。このような状況のなか、アラブ人コミュニティーとユダヤ人コミュニティーは相互に敵意を増し、それぞれのコミュニティーは自分達の政治機構を作り、経済活動も分離した状況で営まれるようになる。

パレスチナとイスラエルの物語(続き)

<パレスチナのユダヤ人コミュニティー>

信託統治下、英国人ハイコミッショナーの下、アラブ人コミュニティーとユダヤ人コミュニティーの対立が始まるが、双方を比較すれば、ユダヤ人のコミュニティー(1948年にイスラエルが建国される以前、パレスチナにおけるユダヤ人コミュニティーはイシュブ、Yishuvと呼ばれていた)のほうがよりよく組織され、経済的にもより多くの資金を有していたといえる。

 

世界シオニスト機関は1921年、パレスチナ・シオニスト委員会を設立し、さらに1929年には、パレスチナにおけるユダヤ人臨時政府とも言うべきユダヤ機関(Jewish Agency)を組織している。ユダヤ機関は金融システムから、医療サービス、移住対策にいたる多様な事業を展開し、機関の代表はハイコミッショナーや他の英国高官と定期的な接触を保ったのである。

それに先立ち、1920年には、選挙で選出される300人の代表からなる国民集会がスタートしている。さらに国民集会(National Assembly)はその代表の中から幹部会メンバー(National council)を選出する。この幹部会メンバーは、信託統治政府からパレスチナにおけるユダヤ人の正統な代表として認められ、ユダヤ人住民のための行政を行う権限を与えられている。

 

ここで、ヒスタドルート(Histadrut)というユニークな組織について触れておきたい。これは1920年に設立されたユダヤ人労働組合連合だが、独特の成長を遂げ、ユダヤ人コミュニティー・イシュブばかりでなく、第二次大戦後に誕生するイスラエル国家にまで大きな影響力を持つ存在となる。

加盟労働者に職場を提供するため、ヒスタドルートは公共事業を生み出し、そのための会社を設立する。1930年代には船会社、農産物商社、道路建設会社、住宅建設会社、銀行、保険会社を有するまでになる。

 

設立の目的の一つがユダヤ人の労働と製品の自給自足体制の確保であったことから、ヒスタドルートはアラブ人労働者とアラブ製品のボイコット運動も展開していることを記憶しておきたい。

伝統的な労働組合運動を支配するだけでなく、ヒスタドルートは農業セクターで働くキブツ労働者とも緊密な関係を持っていた。キブツ運動とはソ連のコルフォーズに似た共産農場運動で、全ての財産はコミュニティーに属し、全ての責任はメンバーで分担するものであり、これは初期のシオニスト達がパレスチナに建設しようとした共同体組織のシンボルでもあった。ヒスタドルートとキブツ運動は、労働と農作業を通じてユダヤ人を再生しようという理念を代表していたのである。これらのことはユダヤ人コミュニティーに社会主義経済の方向を与えるとともに、パレスチナに誕生する新しいユダヤ人イメージを賛美するものであった。欧州のゲットーに生活する抑圧された消極的なユダヤ人のイメージではなく、自分の運命を自分で切り開く自信に溢れ、肉体を使って働くパレスチナの労働者、農民、兵士というイメージである。

 

<ベングリオンの登場>

アラブ反乱については後で詳細に言及することになるが、1920年のアラブ側の信託統治体制への反乱がヒスタドルートの影響力を、さらに高めることになる。この時ヒスタドルートは、ユダヤ人防衛団、ハガナを支配下においたのである。

ハガナは1920年のアラブ反乱時に、ユダヤ人コミュニティーを守るため、訓練され統制された戦力を集めるために組織され、その後、次第に司令部を持つ常備の地下軍団に成長し、ユダヤ人社会の政治機構の中、特にヒツタドルートの影響下に組み込まれたのである。ハガナの兵器は英国軍基地からの盗品だったこともあり、英国当局はこの組織を認知しなかったが、解体も命じることはなかった。

 1930年、ヒスタドルート傘下の二つの労働組合がマパイという政党をつくる。この政党が、その後、1977年までの47年間、ユダヤ人コミュニティー「イシュヴ」と、独立後のイスラエルの政治を支配するのである。

 

マパイ党は、創成期のユダヤ人コミュニティーを飾った社会主義的平等思想を完璧に代表するものだった。当時、労働運動とシオニズムの利益が一致していたのである。このマパイ党を代表する個人をあげるならば、デーヴィット・ベングリオン(1886−1973)をおいてほかにない。

 

ベングリオンの経歴は、この時代のパレスチナにおけるシオニストのリーダー達を代表するものである。

1933年以前にパレスチナに移民したユダヤ人の殆どがそうであるように、彼もまた東欧出身である。1906年、ベングリオンは20歳でポーランドからパレスチナに移住し、最初はキブツで働き、次第に労働者シオニズムの幹部に昇格する。彼はヒスタドルートの発起人の一人であり、その専務理事を務めた後、1935年、ユダヤ機関の議長になっている。マパイ党の設立にもかかわり党首になっているから、ユダヤ機関議長とマパイ党党首を兼ねている。そして1948年には初代イスラエル首相に選出されるのである。

 

 <修正主義路線>

パレスチナにおけるシオニズム運動が抱える問題は現在もこの時代も分派闘争である。しかもそのスペクトルの幅が大きい。一番のテーマは領土についての考え方である。英国による信託統治時代、殆どのシオニストはヴァイツマンの戦略に同意していた。つまり目的の実現は英国政府の支援に期待するという路線である。しかしながら、この路線はあまりに英国に依存していると非難するグループが現れた。修正主義者と呼ばれるようになった人たちである。その代表はロシア人シオニストのウラジミール・ジャボティンスキー(1880−1940)である。パレスチナへの大規模な移民を実現し、出来るだけ早くユダヤ人国家を宣言すべきというのがジャボティンスキーの考えだった。英国は信頼できない。全人口の過半数をユダヤ人が占めることが独立の条件であり、そのためには毎年5万人の移民が必要だと主張した。ジャボティンスキーによれば、ユダヤ人に約束されたパレスチナの領土とはトランスヨルダンを含むもので、この広大な領土に大規模なユダヤ人植民が実施されねばならないとする。 1929年、英国はジャボティンスキーを危険な思想家としてパレスチナから追放し、2年後にジャボティンスキーは世界シオニスト機関から脱退を強いられている。

 これに対し、ハガナのエルサレム地区責任者アブラハム・タホミなどジャボティンスキーの信奉者達は、社会主義的な色彩の強いシオニズム指導部の弱腰な領土政策を不満として、1933年、ハガナを離れ、反マルクス主義国民運動という独自の動きをスタートさせ、英国信託統治当局に対するテロ実行によるユダヤ人国家建設を目的とする独自の軍事組織、イルグンを立ち上げる。ジャボチンスキーの死後、イルグンを引き継いだのが、後に共にイスラエル首相となったメナヘム・ベギンとイチャック・シャミールである。

 

<アラブ反乱とその背景>

パレスチナへのユダヤ人移住は大きく5波に分けることができる。

第一波と第二波は第一次大戦前、第三波は1919年から1923年で、約3万人が主に東欧から移住している。第四波は1924年から1926年で、約5万人が主にポーランドからの移住である。問題は第五波である。1933年から1936年の4年間に17万人のユダヤ人がドイツと中欧諸国から移住する。ナチスによるユダヤ人追放政策が一番の原因である。従って、この時の移住者たちは必ずしもシオニズムに賛同しての移住ではない。北米への移住を希望していたのだが、米国、カナダがビザの発給を制限したため、やむなくパレスチナに向かったというものも多かった。

第五波の移住により、パレスチナのユダヤ人コミュニティーの規模は倍増する。第五波の移住者たちは、第四波までの移住者とは様相を異にしている。高学歴の専門職や有能なビジネスマンが多く、資産家が多かったのである。信託統治当局の資料によれば、資本家に分類される移住者が全体の55%に達していたという。このことは、信託統治当局による政策の反映とも言える。パレスチナ経済の発展を促すため、資産家に分類できるユダヤ人移民については、通常の移民制限枠を適用せずに無制限に入国を許可したのである。この豊かな移民者のほとんどは、内陸部での農業開発には関心が少なく、テルアビブを中心とする沿岸都市部に留まり、ビジネスを始めている。

この第五波を生み出したナチスのユダヤ人政策は、後のアウシュビッツに象徴される迫害政策とは少々趣旨を異にする。この時点でヒトラーはシオニズムを自らのユダヤ人政策に好都合な運動と見ていた。ナチズムのユダヤ人政策はゲルマン民族の生活圏からユダヤ人を追放しようというものであり、シオニスト達は東欧、ドイツから出ていくと言っているのである。ここで奇妙な連携が成立する。

ナチズムはユダヤ人がドイツを離れパレスチナに移住する場合、その資産の移送を保障したのである。そのための秘密協定(ハアヴァラ協定)がナチスとシオニストの間に結ばれている。これはドイツ製品の輸出増進という面もあり、複雑な仕組みだが、簡単に説明すると、ドイツ製品をパレスチナが輸入する場合、パレスチナに移住しようとするユダヤ人のドイツでの資産を使い、これを購入し、パレスチナに輸入し、パレスチナで売り上げた金額の中から、パレスチナに移住してきたユダヤ人の債権者に投資額を支払うという仕組みである。

 

第五波のユダヤ難民については、その一部を受け入れ、国作りに利用しようという国まで登場した。日本である。満鉄総裁の松岡洋佑や、満州重工業の鮎川義介などが満州へのユダヤ人5万人移住を計画する。ユダヤ人の資産と技術を満州の国づくりに利用しようという計画だった。計画を実現するため近衛内閣は1938年、日本、満州、中国に移住するユダヤ人については、他国人と同様に公正に扱い、資本家、技術家は積極的に誘致することを決定している。

満州への移住は、1940年の日独伊三国同盟が成立して実現しなかったが、パレスチナへの移住は増加の一途を辿る。ユダヤ・ナショナル基金という機関が創設され、移住者のための土地を購入し低額で移住者に貸し付ける仕組みも出来上がる。基金は外国に住むアラブ人不在地主の土地をターゲットにした。初期の最大の取引はベイルートに住むサーソック家から1920年に購入した5万エーカーの耕作地だった。その後はパレスチナに住む名家の家族も基金が示した額に目が眩み、秘密裏に土地を売る者も増えてくる。悲劇はユダヤ人の手に渡った土地のアラブ人小作人だった。ユダヤ人は、自分達の土地で働くのはユダヤ人と定めていたからである。信託統治当局の税制もアラブ人農民に悲劇をもたらした。オスマントルコ時代とことなり当局は現金による納税を課したのである。農民は裕福な大地主から現金を借り納税したが、その借金のために土地を奪われる農民が続出する。

以上が、1929年と1936年に起きたアラブ人反乱の背景である。

 

 <アラブ反乱>

1929年の8月、ユダヤ人のデモ隊に挑発されたアラブ人が反乱を起こし、英国兵が鎮圧に入り、ユダヤ人133名、アラブ人116名が命を落とした。

これに対し、英国政府はウォルター・ショー卿を団長とする勅令調査団を派遣する。調査団は、土地を失くしたアラブ人たちの不満が原因と結論づけ、ユダヤ人の移民をもっと英国の管理下に置くべきであると報告する。続いて一年後の1930年夏に派遣されたホープシンプソン調査団の勧告が英国のパレスチナ政策として発表されたが、ここでもユダヤ人移民の制限が必要であることが強調された。

ヴァイツマンは、英国と米国のユダヤ人社会の有力者を総動員し、政策変更を要求する。ヴァイツマンの行動は大成功を収め、1931年2月、マクドナルド首相は議会にて、ヴァイツマン宛ての私信を朗読し、その中で政策の変更を伝えた。この首相書簡はアラブ側ではブラックレターと呼ばれ、シオニストの英国政府に対する影響力の大きさを全世界に示すこととなった。

 

英国はさらにパール卿を団長とする調査団を派遣し、そのリポートが1937年に発表される。報告は、バルフォオ宣言の矛盾を認め、宣言に基づく国づくりが困難であるとした。そしてアラブ人の国とユダヤ人の国を分けるべきであるとの勧告を行った。アラブ人リーダー達による高等委員会(Arab Higher Commission)はこれを拒否し、パレスチナにおけるシオニストのリーダー達は分離案は是としながらも、勧告に示された領土の範囲についてはこれを拒否した。1937年の世界シオニスト会議もパレスチナの同胞の判断を追認している。

1937年、アラブの反乱が再発する。ゼネラル・ストライキとともに、偶発的な暴動が各地で散発し、10月に英国のガリレア地域コミッショナーが殺害されると、信託統治当局はアラブ委員会を解散させ、そのメンバーを逮捕する。農民を中心とする反乱は、英国が管理する鉄道、橋、交番を襲い、ユダヤ人の所有する施設を破壊し、ユダヤ人植民を殺害した。暴動に参加したのは5000人を超えない人数であったが、アラブ人住民の支持を得ていた。1938年には、殆どの主要都市と地域が反乱者の手に落ち、エルサレムの一部もその支配下にあった。この反乱は、反英国、反シオニストの動きとともに、アラブ人支配層に対する社会革命運動という側面を持っている。支配下におさめた村々では、日本の室町時代における徳政令と言えるものが実施されている。借金が棒引きになり、大地主達は反乱への財政支援を強要されている。英国は2万人の兵隊を導入し、反乱者達を保護した村々に連帯責任としての報復を開始した。この連帯責任としての報復というパターンは、現在のイスラエルのパレスチナ対策に受け継がれている。この時、ユダヤ人達もアラブ人に対する軍事的行動を起こしており、すでに記したように、この戦闘集団が、ハガナの前身となる。英国がこの反乱を終結させるのは1939年の3月である。再開された反乱は、パール調査団報告発表後、ほぼ1年半続いたことになる。この間、3000のアラブ人、2000のユダヤ人、600の英国人が命を落としている。

 

1939年2月、英国植民地省は、ロンドンにおいてアングロ・アラブ・ユダヤ会議を開催し、事態の収束を図った。予想されるナチスドイツとの戦いに備えるため、中東における石油資源、空軍基地の確保は英国にとっての死活問題となっていた。会議の結果は1939年白書として纏められたが、以下の文言はシオニスト達に大きなショックを与えた。

『パレスチナをユダヤ人の国家とすることは、英国政府の政策ではないことを明確に宣言する』

さらに白書は明言している。

『今後、5年間、ユダヤ人の移民は年間1万5千人に制限する。5年後の時点で、アラム人のコミュニティーが移民の継続を同意しないのならが、これを中止する』

『ユダヤ人への土地の譲渡は特定の地域に限定する』

『10年以内にパレスチナが独立することを保障する』

 

そして、1939年、ドイツがポーランドに進軍し、第二次世界大戦が勃発する。

『我々は、あたかも1939年白書が存在しないかの如く、英国とともにこの戦争を戦うであろう。そして、我々は、あたかもこの戦争が存在しないかの如く、1939白書と闘うであろう』

ベングリオン、苦渋の宣言である。

パレスチナとイスラエル物語(続き)

<第二次大戦中のシオニスト>

第二次世界大戦に対するシオニストの行動は単純ではない。ユダヤ機関やハガナ軍団、そしてジャボティンスキーすら、英国の戦争を支持し、2万7千人のユダヤ人を投入し、レバノン、シリア戦線ではヴィシーのフランス軍と闘い、イタリア戦線では有名なユダヤ軍団を編成してヒトラーとの戦いを続けた。しかしながら、ユダヤ人国家の建設という目標の実現にとって英国が最大の障害になるであろうとの認識から、ヒトラーとの戦いが終われば、次は英国との武力闘争が避けえないものとしてシオニスト達はその準備を始めているのである。

 

各戦線での経験を、将来の自らの軍隊のための文字通りの実戦訓練ととらえるとともに、パレスチナ本国においては、ドイツ軍の攻撃に備えるとの名目で、ハガナが着々と武装を強化している。しかしながら、イルグン、シュテルンといった分派武装グループはハガナとは全く異なった戦略によっていた。それはユダヤ国家建設に資するならば誰とでも手を組むというものだった。戦況は英国に厳しく、北アフリカにイタリアに次いでドイツ軍が進軍し、日独伊枢軸の勝利が見えてくると、シュテルンはイタリアの独裁者ムッソリーニとコンタクトを始める。もしイタリアが中東を征服するならば、そのほうが早くユダヤ国家を建設できるかもしれないと考えたのである。エルサレムをバチカンの支配下に置き、イタリアとユダヤ人国家としてのパレスチナが協調体制を組むという考えだった。日独伊枢軸側が勝利した場合、さっそく対英戦争を始めるため、1940年にはムッソリーニとシュテルンとの間に軍事協定が結ばれていたという説もある。しかしながら、イタリア軍に中東進出の気配が全くうかがえないため、今度は、シリアのヴィシー政権下のフランス軍を通じ、ヒトラーにコンタクトを取り、ユダヤ人が絶対主義制度の国をパレスチナに建設することを約束するとともに、詳細に亘る軍事協定を提案している。1941年1月11日づけの提案である。戦後、この提案書がトルコのドイツ大使館から見つかって大きな問題となっている。

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